善人承継 リレーインタビュー
見えなくなるかもしれない。だから私は、今日をちゃんと見る。――小牟田美和子という「歩くパワースポット」
尊(mikoto) 店主 小牟田 美和子 (こむた みわこ) さん インタビュー

「携帯ばっかり見ていたら、そこに花が咲いてることにも気づかないじゃないですか」


インタビューの終盤、小牟田美和子さんはそう言った。

道端に咲くすみれ。たんぽぽが綿毛に変わっていく瞬間。いつの間にか増えている、父や母の白髪。

何気なく見ている家族の顔。今日の空。そして、目の前にいる人の笑顔。

私たちは、それらが明日も見えると思っている。

けれど美和子さんは知っている。


「今、見えているものが、ずっと見えるとは限らない」


19歳で緑内障と診断された。

すでに視野は大きく欠け、現在は人の顔が判別しづらいこともある。

いつか、さらに見えなくなるかもしれない。

それでも彼女は笑う。人を迎える。人と人をつなぐ。

落ち込んでいる人に「大丈夫だよ」と言う。

そして鹿児島の小さな店から、何度もこう伝えてきた。


「あなたは一人じゃないよ」


目の病気を抱えた女性の話を書くつもりだった。

ところが話を聞き終えてみると、少し違った。

これはきっと、誰よりもたくさんのものを“見つけてきた人”の物語なのだ。



氏  名: 小牟田 美和子(こむた みわこ)

居住地: 鹿児島県鹿児島市

家  族: 夫、独立して東京で暮らす一人娘、愛犬

活  動: コミュニティカフェ「尊(mikoto)」を運営

「美しい平和な子」に生まれた、わりと平和じゃない少女時代

「美和子」という名前は、母がつけてくれた。

娘が生まれたら、“美しい、平和な子に育ってほしい”

そんな願いを込めたという。

今、美和子さん自身は「和」という字に、もう一つの意味を感じている。

調和の「和」。人と人をつなぐ「輪」。そして笑う「わ」。

実際、彼女の周りにはいつも人がいる。それは子どもの頃からだった。


鹿児島市で三姉妹の長女として育った。

家の隣にも後ろにも親戚が住み、少し歩けば祖父母の家。

正月は一日目が祖父母宅、二日目が叔父の家、三日目が自宅。誕生日、父の日、母の日、クリスマス。何でも祝い、何でも集まる。

父はとにかく人集まるのが好きだった。

そして母は、それを嫌な顔ひとつせず、全員分の料理も準備して迎えてくれる人だった。


「母を本当に尊敬しています」


美和子さんはそう言う。

ただし、その家庭が毎日ディズニー映画のように平和だったわけではない。

父は、かなり厳しかった。

怒られると正座。


「10数えるまでに謝れ」


そして謝らなければ叩かれる。

ところが美和子少女、なかなかの筋金入りである。自分が悪くないと思ったら、謝らない。

父の「いーち、にーい……」が始まっても謝らない。最後の「きゅーーーう」が妙に長くなっても、謝らない。

結果、泣きながら叩かれても、謝らなかった。

強情と言えば強情。だが言い換えれば、自分の気持ちを曲げなかった。

その一方で長女だった美和子さんは、父の「地雷」がどこにあるのかを学んでいった。

自分が先に怒られながら、


「ここを踏むと危ないぞ」


と、後ろから来る妹たちにも気づかせ、学ばせ、いばらのトゲが抜けた道を上手に歩かせたことになっていた。

本人はそんなつもりではなかったかもしれない。

でも振り返れば、この頃からもう美和子さんは、本人も気づかぬ自然な形で、"誰かのために"ができる人だったのだ。


勉強?

「ダメでした」

運動?

「それもダメでした」

一生懸命走っても後ろの方。忘れ物もする。遅刻だってする。

中学生の頃には、髪を巻いているうちに時間がなくなり、学校へ走って行ったこともある。

そんな彼女が卓球部では部長になった。

本人いわく、


「私よりみんなの方が上手でした」


技術ではない。

きっと昔から、人の真ん中にいる力があったのだ。

昨日までいた人が、今日はいない――19歳で知った「命の期限」

人生の景色が大きく変わったのは19歳だった。

就職した頃、大好きだった従兄が交通事故で亡くなった。

隣に住む大学生で、兄のような存在だった。まだ21歳だった。

可愛がってもらい、彼女が来れば気になってこっそり様子を見に行く。そんな、当たり前にそこにいる人だった。

その人が突然いなくなった。


「昨日まで元気だった人に、今日はもう会えないんだ」


初めて突きつけられた現実だった。

そしてもう一つ忘れられなかったのが、息子を失った叔父と叔母の姿だった。

子どもが親より先に逝く。残された親がどれほど苦しむのか。美和子さんは目の前で見た。

その記憶は、その後の彼女の人生を支える一本の細い糸になる。


翌月、仕事の忙しさも重なり、激しい頭痛や吐き気に悩まされるようになった。

脳外科へ行った。MRIも撮った。それでも原因が分からない。

たまたま受診した眼科で、大学病院から来ていた医師が検査を勧めた。

測定された眼圧は、本人の記憶では60ほど。

そして告げられた。


緑内障。


早く治療しなければ、失明する可能性がある。

19歳だった。

周囲から聞こえてくるのは、


「白内障は治るけど、緑内障は……」


という言葉。


「結婚できないかもしれない」

「見えなくなったら、人の足手まといになる」

「誰の役にも立てない」


未来を想像するほど怖くなった。

レーザー治療を受けても眼圧は下がらず、両目の手術を受けることになった。

当時の美和子さんは「休ませてください」が言えない人だった。

レーザー治療の日でさえ少し横になれば職場へ戻ろうとする。だが手術となればそうはいかない。

仕事も辞めた。

そして糸が切れた。

自暴自棄になり、飲み歩いた。


「もう結婚もしない」

「死んでしまいたい」


そんなことまで考えた。けれど、そのたびに浮かんだ人がいた。

21歳で亡くなった従兄だった。

生きたくても、生きられなかった人。そして、その息子を失った叔父と叔母。

死にたい。

でも、自分で命を終わらせてはいけない。その間を何度も揺れた。


22歳になった美和子さんに、思いがけない居場所ができる。

高校時代、ソフトボール部でマネージャーをしていた経験から、実業団チームのマネージャーを頼まれたのだ。


「はい、ジュース」

「みんな頑張れ!」


選手を応援した。練習にも顔を出した。

時には、


「強くなりたいんでしょ!」


と選手を鼓舞した。

そのチームは、ついには全国大会へ進んだ。そして美和子さん自身も、気づき始めた。

自分にも、誰かの役に立てる場所がある。


「マネージャーをしてくれてよかった」


その一言が、未来を失ったと思っていた美和子さんを、もう一度人生の中へ連れ戻していった。

「結婚しない」と言っていた彼女は、その後ちゃんと結婚した。

人生というものは、本人が出した予定表を、わりと平気で無視する。

「待ってたのよ」――たった一言が、人の人生を救うことがある

30歳で娘を授かった。

緑内障の治療との兼ね合いもあり、妊娠には葛藤があったが、

産まれてきた娘を見て、思わず感情があふれた。


「愛おしいって、こういうことなんだって」


2人目も考えたが、、母からは身体を心配され、


「あなたの身体考えたら、眼の方が大事だから一人にしてほしい。」

「一人いたらいいじゃない」


と言われ、葛藤の末に2人目はあきらめた。


娘が生後2か月の頃、夫の仕事の都合で沖永良部島へ移った。

知り合いはいない。周囲は単身赴任者も多い。赤ちゃんは当然まだ喋らない。


「早く喋らないかな」


そう思うほど、人との会話に飢えた。

そんな時、地域の保健センターを知った。子育て中のお母さんたちが集まれる場所だった。

そこへ行くと、60代くらいの保健師が声をかけてくれた。


「待ってたのよ」


その一言だった。

どうしてたの?元気だった?そう迎えてくれる人がいる。

自分を待ってくれている場所がある。それだけで人は救われるのだと、美和子さんは知った。

娘を抱いて孤独の中にいた母親が、そこで再び「美和子さん」に戻れた。


島を離れて鹿児島へ戻った頃、もう一つの出会いがあった。

AIの名曲『Story』。歌詞の世界に励まされながら、美和子さんは思った。

今度は自分が、


「待ってたのよ」

「おかえり」


と言える人になりたい。

偶然はさらに続く。娘が通った幼稚園の英語教師が、AIの母・バーバラさんだった。


美和子さんはバーバラさんの教育について学び、講演会にも足を運んだ。

そこで心に残ったのが、子ども自身に選ばせること。

親はいつまでも一緒にはいられない。

だからこそ、自分の人生を自分で決められる子に育てる。厳しい父のもとで育った美和子さんは、それを娘に渡した。

娘には幼い頃から、


「夢を叶えて幸せになって、羽ばたいてほしい」


と伝えてきた。

娘は大阪へ進学し、現在は東京で暮らしている。離れていて心配ではないのかと尋ねると、


「夢を叶えるためにどんどん進んでるので、応援しています」


と笑った。自分が欲しかった言葉を、娘には惜しみなく渡した。

これもまた、美和子さんなりの「善人承継」なのかもしれない。

「60歳までかもしれない」――だから45歳で、夢を前倒しした

45歳の頃、緑内障はさらに進行していた。

長く通った医師から大学病院を勧められた。そして本人によれば、視機能について、

「60歳頃までではないか」という趣旨の話をされたという。

その時、娘は15歳。

30歳で産んだ娘を育てていたら、15年などあっという間だった。ならば、これからの15年もあっという間なのではないか。

そう思った。


「だったら、早くやらなきゃ」


昔から温めていた夢があった。

人が集まり、元気になり、誰かと誰かがつながる場所を作ること。美和子さんは店を始めた。

それが現在の「尊(mikoto)」につながっている。

小さなコミュニティカフェ。


「カフェって言っても、お茶しかないんですけど」


本人は笑う。

だが、ここで提供されているものは飲み物だけではない。

ある人は講座を開く。ある人は作品を置く。ある人は悩みを話す。

初めて来た一人客には、


「この方、こういうことをされてるんですよ」


と別の客を紹介する。

気がつけば、初対面同士が昔からの知り合いのように話している。


悩みを抱えた人が来れば、解決できる誰かにつなぐ。法律の相談なら、弁護士につながる人へ。

苦しい人には、


「死ぬくらいなら逃げていいんだよ」


と伝える。実際に、


「ここがあってよかった」

「死ななくてよかった」


と言ってくれた人もいた。

店を始めて5年。視野はさらに狭くなっていった。

入ってきた人が妹なのかどうかさえ、すぐに分からないこともあった。


「申し訳ないな」


そう思うようになり、一度は店を閉めた。

最後には約300人規模の会場で「尊(mikoto)祭り」を開催した。

テーマは、愛・命・感謝。

バーバラさんのトークショーなどを行い、チャリティーにもつなげた。

盛大に終わった。

これで一区切り。――のはずだった。

ところが閉めてみて分かった。

困ったのは、お客さんだけではなかった。美和子さん自身だった。


「この人に会いたい」

「あの人にも会いたい」


店がなくなると、一人ずつ会いに行かなければならない。予定は逆にパンパンになった。

友人から言われた。


「店を復活させて、一日にみんな来てもらった方が楽じゃない?」


確かに。

こうして「尊(mikoto)」は復活した。

人の居場所を作ったと思っていたら、自分の居場所も作っていた。

誰かを支えていると思っていたら、自分も支えられていた。


善意というのは一方通行ではない。

誰かに差し出した手を、別の日には自分が握ってもらう。

それでいいのだと思う。


目が見えにくくなって、見えるようになったもの

現在、美和子さんの視野には見えない部分が増えている。車の運転も、もうしていない。

人の顔が分かりにくいこともある。それでも、彼女にはこれからやりたいことがある。

「尊(mikoto)」10周年。

そこで、歌手の吉田山田の音楽を通して、自分がこれまで一人ひとりに伝えてきた思いを、もっと多くの人へ届けたいという。


あなたは、かけがえのない人なんだよ。一人じゃないよ。死んでしまうくらいなら、そこから逃げてもいい。


美和子さんが目指す人物像も面白い。

バーバラさんのように、会っただけで元気になれる人。

明石家さんまさんのように、人の話を聞いて、「それ、すごいやん!」と面白がれる人。

笑福亭鶴瓶さんのように、年齢も肩書も関係なく人の懐へ入り、「あんたもすごいね」と言える人。

最近、お客さんからこんなことを言われるようになった。


「美和子さんって、歩くパワースポットだよね」


なるほど。

昔思い描いていた「シュッとした綺麗なお姉さん」にはならなかったらしい。

代わりに、お客さんがお茶碗を洗って帰る店の店主になった。

旅行のお土産を誰かが持ってきて、それをまた別のお客さんに配る店主になった。

失敗談を話せばみんなに笑われる店主になった。

そして悲しい顔で来た人が、少し元気になって帰っていく店主になった。


たぶん、そちらの方がずっといい。

最後に、若い人へ伝えたいことを聞いた。美和子さんはしばらく考え、こう話した。


「小さな愛を見逃さないでほしい」


携帯ばかり見ていたら、道端のすみれを見落としてしまう。

たんぽぽが綿毛になったことにも気づかない。

そして気づいた時には、お父さんもお母さんも白髪が増えているかもしれない。

時間は思っているより、ずっと早い。


「私も写真が好きなんですけど、今見えてるこのシーンって、もう戻らないから」


この言葉を聞いて、私は少し黙った。

目が見える私たちは、本当に景色を見ているのだろうか。

家族の顔を見ているだろうか。季節を見ているだろうか。目の前の人の小さな変化を見ているだろうか。

美和子さんは、少しずつ視野を失っている。

でもその代わりなのかもしれない。

人の優しさ。誰かが差し出した小さな愛。今日一日を生きられるありがたさ。人と人がつながる瞬間。

そんな、視力検査表には絶対に映らないものを、誰よりよく見つけるようになった。

緑内障になったから良かったなどとは、決して言えない。

見えなくなる怖さは本人にしか分からない。

それでも。

見えるものが減っていく人生の中で、見逃したくないものは、むしろ増えていった。

19歳の美和子さんに、今の彼女が声をかけるなら、


「よく頑張ってるね」


と言うそうだ。

ならば、その続きを勝手に付け加えさせてもらいたい。

19歳の美和子さん。

あなたが「誰の役にも立てない」と思っていた未来で、

あなたを待っている人が、こんなにたくさんいます。

あなたが店にいるだけで安心する人がいます。

あなたに会うだけで元気になる人がいます。

あなたがつないだから出会えた人たちがいます。

そしてあなたがこれから先、もし見えにくくなったとしても、

あなたがこれまで人に見せてきた景色まで消えることはありません。


「待ってたのよ」


かつて島で、美和子さんを救ったその一言。

今ではきっと、たくさんの人が同じ言葉を、美和子さんに返したいはずだ。


「美和ちゃん、待ってたよ」


インタビュー後記

正直に白状すると、私は美和子さんに対して途中からものすごく申し訳なくなっていた。


「この人、目の話をしているのに、私よりよっぽどいろんなもの見えてないか?」

「一体、私の眼は何のためについてるんだ?」


と思い始めていた。

私は両目とも見えている。老眼が始まったとはいえ、今のところ視界に違和感はない。

なのに道端のすみれなんて、まあ見ていない。

たんぽぽが綿毛になった日など、当然知らない。それがたんぽぽかどうかも怪しいかもしれない。

スマホのバッテリーが30%を切ったことには即座に気づくのに、親の白髪が増えたことには全く気づかない。

人間、何を見ているんだか分からない。


そして、もう一つ印象に残ったのが「尊(mikoto)」だ。

カフェなのに「お茶しかない」と本人は言うのに人が集まる。

客が皿を洗う。客同士が仲良くなる。相談事まで持ち込まれる。

もはやカフェなのか、集会所なのか、人生相談所なのか、親戚の家なのか分からない。

たぶん全部なのだろう。

美和子さんが目指しているのは、バーバラさん、さんまさん、鶴瓶さん。

なかなか欲張りなラインナップである。

しかし話を聞いていると、もう半分くらい混ざっている気がする笑

あとは5年後、「歩くパワースポット」が「鹿児島名物」くらいになっていれば目標達成だ。


人は「失ったもの」に目を向けがちだ。

けれど小牟田美和子という人を見ていると、人生はそれだけではないと思わされる。

見えなくなっていくものがあっても、見えてくるものもある。

だから私は今回の記事を、病気と闘う人の物語ではなく、


「今日という景色を、誰より大切に見ている人の物語」


として残したい。

私たちは明日も見えると思っている。だから今日を見逃す。

彼女は違う。

今日見えているものが永遠ではないと知っている。だから人を見る。

花を見る。家族を見る。小さな愛を見る。そして、それを見つけたら誰かに教える。


「ほら、ここにあるよ」と。


小牟田美和子さん。

あなたがこれから見る景色が、どんな形に変わったとしても。

あなたが人の心に灯してきた景色は、きっと消えない。

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尊(mikoto)

鹿児島県鹿児島市郡元3丁目1-2

TEL:099-801-2371

◇Instagram:@mikoto.nikkori


*お電話相談の際、『区民ニュース』の記事を読みました。とお伝え下さい。

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