善人承継 リレーインタビュー
ラップに情熱、人には愛情
株式会社ユニスターズ 代表取締役社長(CEO) 前澤 高行 (まえざわ たかゆき) さん インタビュー

氏名

前澤 高行(まえざわ たかゆき)

アーティスト名  HAMMER(ハマー)

生年月日

1975年9月13日

出身

東京都品川区

家族構成

妻、娘

経歴

・1999年「2BACKKA」のリーダーとして活動を開始

・2001年SOUL’d OUTのDiggy-MO’とのユニットViRCAN DiMMERを結成して活動。(2020年にアルバム「HOROSCOPE」をリリース)

・2006年 アルバム「sign」にてavexよりメジャーデビュー

その後、BENNIE K、Diggy-MO’、SEAMO、GReeeeN、SPEED、田村直美、ジョーリノイエ、渡辺俊美などの作品に参加。

・2007年熊本で行われた KAB 主催のラストサマーファンタジーにて出演、米米 CLUB、一青窈、SOMA等4組で『浪漫飛行/シェイクヒップ』をコラボ。

・2011年2BACKKAが休止中、ソロアーティストViRGO a.k.a.HAMMERとして活動。

・2012年のフランスで開催されたジャパンエキスポ2012ではソロラッパー初のメインステージアーティストとして出演

その他、映画『ニセコイ』の劇中RAPパートの制作、5UPよしもとカウントダウンテーマソング / 参加芸人 ( 天竺鼠. かまいたち. GAG少年楽団. 藤崎マーケット. アキナ. 和牛)をプロデュース、人気ダンサーTAKAHIROのアニソンエクササイズDVD楽曲「サリーちゃん」をプロデュースなど様々な活躍を見せる。

現在の活動

株式会社ユニスターズ/芸能事務所「HARMONIZE COMPANY]代表取締役社長。

横浜市戸塚区を拠点に、ダンススタジオや芸能事務所を運営。音楽・映像制作、アーティスト育成に携わるほか、地域のまちづくりにも積極的に取り組んでいる。

「ハマー」と呼ばれるようになったきっかけ

「ハマーって呼ばれているんです」


そう気さくに話してくれたのは、戸塚でダンススタジオ「UNISTA」を運営し、芸能事務所「HARMONIZE COMPANY」を率いる前澤高行さん。


「ハマー」というあだ名がついたのは、高校に入学した頃。当時流行していたMCハマーのような髪型をしていたことから、同級生に「ハマー」と呼ばれるようになったという。


そのあだ名が、後にアーティスト名「HAMMER」となり、現在も使われている。



1999年にヒップホップグループ「2BACKKA」のリーダーとして活動を始め、2006年にはavexからメジャーデビュー。


数々のアーティストの楽曲制作にも携わり、2012年にはフランスで開催された「Japan Expo」のステージにも立った。


華やかな経歴を持つ前澤さんだが、これまでの人生を尋ねると、何度も口にしたのは「人に助けられてきた」という言葉だった。


その言葉の背景には、意外な少年時代と、数えきれないほどの出会いがあった。

いじめられっ子だった少年が、誰かを助ける側に

東京都品川区の下町で生まれ育った前澤さん。小学校低学年の頃は、いじめられっ子だったという。


そんな少年を変えたのは、父親の影響で夢中になったプロレスだった。


父親とプロレスごっこをするうちに技を覚え、体育の授業でのマット運動の時間に友達と楽しむようになると、次第に周囲に人が集まるようになった。。


「僕が一番技を知っていたんですよ。運動神経も良かったし。そしたら、ちょっと人気者になってきて」


そこから、いつしかいじめられていた少年は、いじめられている子を助ける側になっていた。


中学に入ると部活はバレーボール、高校ではラグビーやサッカーに打ち込み、仲間と過ごす日々を送った。


そんな前澤さんが、当時なりたかったのは保育園の先生。


昔から子どもが好きで、小さな子どもたちと自然に遊び、慕われることも多かったという。

しかし、希望していた進路には進めず、絵を描くことが好きだったことからデザインの専門学校へ。


この進路変更が、人生を大きく動かすことになった。

「お前の夢を、自分の夢だと思って応援する」

音楽は、もともと身近な存在だった。


中学時代には少しだけバンドを経験し、ブラックミュージックに惹かれて高校時代にはダンスにも挑戦した。


ただ、教えてくれる人もおらず、音楽はまだ「好きなもの」のひとつだった。


その距離が縮まったのは、デザインの専門学校に進んでから。


学校のある渋谷には、レコード店がいくつも軒を連ねていた。店に通っては新しい音に触れるうちに、もともと好きだったヒップホップやラップに、ますますのめり込んでいった。


やがて、聴くだけでは飽き足らず、DJを志すようになる。


機材を買い、ミックステープを作って友人たちに贈ると、喜んでくれた。自分の選んだ音楽が、誰かを楽しませる。その喜びは、いつしか「自分の音楽を作りたい」という思いへと変わっていった。


けれど、卒業後に選んだのは、意外な道だった。


面接の練習のつもりで受けた東京ガスの採用試験に、思いがけず合格したのだ。応募者は約200人。採用されたのは、わずか8人ほどだったという。


「面接で会社のことを聞かれても、わからないことは、わからないって答えました。ただ、全力で頑張りますって。それしか言ってなかったんです(笑)」


取り繕わず、自分の言葉で伝えた熱意。そのまっすぐさが、相手に届いたのかもしれない。


しかし、安定した仕事に就いても、音楽への思いは膨らむばかりだった。


2年後に退職すると、貯金で機材をそろえ、自宅で曲作りに没頭する日々が始まった。


そんな生活が続くなか、音楽だけでは暮らしていけず貯金が底をつきかけた頃、手を差し伸べてくれたのは、電気店を営む親友だった。


「うちで働けばいい。ライブがある日は休んでいいから」


昼は電気店で働き、夜は渋谷のクラブでライブをする。朝方に帰宅し、わずかな睡眠を取ってまた仕事へ。そんな毎日を親友が支えてくれた。


ある日、感謝を伝えた前澤さんに、親友はこう言った。


「俺は家業を継ぐしかなかった。だから、お前が見ている夢を、自分の夢だと思って応援するよ」


夢を追う日々は、もう自分ひとりのものではなかった。


あの日の言葉は、今も前澤さんの心に残っている。

誰も見ていないところで、見ている人がいた

ライブハウスで音楽活動を始めた頃、前澤さんは一つのことを自分に決めていた。


イベントが終わるまで会場に残り、最後に掃除をして帰ること。


「別に何かを期待していたわけじゃないんです。ただ、そうしようって決めていたんですよ」


ライブが終われば帰る出演者も多い中、最後まで残って片づけをする。そんな姿を、見ている人がいた。


主催者や会場スタッフから声をかけられるようになり、そこから少しずつ出演の機会が増えていった。気づけば月に20本ほどのライブをこなすまでになっていたという。


「今思えば、あれがあったからかなって」


2000年には仲間たちと音楽イベント「UNITY」を立ち上げた。


そこは、若いアーティストたちが夢を持って集まる場所となり、やがて全国から自分のCDを手にした若者が訪れるようになった。


レコード会社の関係者も集まる中、前澤さんは若いアーティストを紹介し、夢への橋渡しもしていたという。


そして2006年、2BACKKAとして念願のメジャーデビュー。



その後はラッパーとしてだけでなく、作詞・作曲やプロデュースでも活躍の場を広げた。


さらに2012年には、フランスの「Japan Expo」に出演。


「メジャーデビューすることと、海外でライブをすること。その二つが夢だったんです」


若い頃に描いた夢を、ついに叶えた。しかし、前澤さんの人生は、そこで終わらなかった。

通帳残高、わずか数百円。それでも守りたかったもの

夢を叶えた後、前澤さんは活動の中心を少しずつ裏方へと移していった。


アーティストのマネジメントや会社経営に挑戦するが、その道のりは決して平坦ではなかった。


事業の失敗や会社の倒産も経験し、新たに立ち上げたダンススタジオも、当初は経営が厳しかった。


一時は会社の通帳残高が、わずか数百円にまで減ったこともあったという。


それでも、スタッフや講師への支払いは守りたい。


前澤さんは昼間にハウスクリーニングの仕事をし、さらに夜間は鉄道関連の工事現場でも働いた。


「今だったら、もうあんな働き方はできないですね(笑)」


当時を笑いながら振り返るが、その苦労は並大抵のものではなかっただろう。


それでも諦めずに続けてこられたのは、家族や仲間、そして前澤さんを信じてくれる人たちの存在があったからだという。


コロナ禍にはスタジオの活動が制限される一方で、配信や映像制作という新たな仕事にも挑戦。


そこで培った技術が行政関連の映像制作などにもつながり、事業の幅を広げるきっかけとなった。


「本当に、人に助けられてきたんです」


苦しい時に差し伸べられた手を、前澤さんは忘れていない。

音楽が、人の喜びになっていた

そんな前澤さんが、近年あらためて音楽の力を実感した出来事がある。


長年、北海道の「YOSAKOIソーラン祭り」に参加する障害のある人たちのチーム「どんまい」の楽曲制作に関わってきたこと。


きっかけは、音楽仲間からの紹介だった。


途中、関係者の事情で一度離れた時期もあったが、かつての若いメンバーたちが運営を担うようになった頃、再び声がかかった。



「やっぱりハマーさんがいいって言ってくれたんです」



それから音楽を通じたつながりは続いている。


ある時、チームの打ち上げでライブをしてほしいと頼まれた。


久しぶりに人前で歌うと、会場は大いに盛り上がり、中には涙を流して喜ぶ人もいた。


「実は2BACKKAの頃からファンだったんです」

そう声をかけてくれる人もいたという。


自分が作ってきた音楽を、こんなにも楽しみにしてくれていた人がいる。


「その時、ああ、自分の音楽って人のためになっているんだなって思ったんです」


その言葉が、とても印象に残った。


若い頃は、自分の夢を叶えるために夢中で音楽を作り、ステージに立っていた。


けれど今は、その音楽を待っていてくれる人がいること、喜んでくれる人がいることが、何より嬉しいのだという。


チームの人たちとの交流は、前澤さん自身の考え方にも変化をもたらした。


障害の有無にとらわれず、明るく、思いきり楽しむ姿に触れ、人との向き合い方や可能性について考えさせられたという。


「もちろん、一人ひとり違うから、気をつけなきゃいけないこともありますけどね」


相手を特別視するのではなく、その人自身を見る。


音楽を通じて得たそんな気づきは、現在の子どもたちの育成にもつながっているように感じた。

かつての教え子が、今度は先生に

現在、前澤さんが運営するダンススタジオには、約300人の生徒が通っている。その中心は小学生の子どもたち。


成長の早さに驚かされることも多く、数か月前に作った曲が、もうその子には合わなくなっていることさえあるという。


中でも、特に嬉しかった出来事がある。


小学校4、5年生の頃からスタジオに通っていた一人の女の子。


その後、本格的にダンスの道へ進み、大会で優勝するほどに成長した。


そしてある日、前澤さんに相談してきた。


「先生になりたいんです。どうしたらいいですか?」


前澤さんは、スタジオの仕事を手伝いながら指導を学べる環境を用意した。


半年ほどの研修を経て、その子は今、かつて自分が習っていたスタジオで先生として活躍している。


「それが、すごく嬉しいんですよ」


そう話す表情は、音楽での成功を語る時とはまた違う、温かなものだった。


かつて親友が自分の夢を応援してくれたように、今は前澤さんが若い世代の夢を支えている。


そして、その夢を叶えた子が、次の子どもたちを育てている。


「音楽が好きで、子どもも好きで。結局、自分の夢が叶ったなって思うんです」


保育園の先生になりたかった少年の夢は、形を変えて実現していた。


「地元より地元」になった戸塚


2011年、結婚を機に戸塚へ移り住んだ前澤さん。


現在は奥様と娘さんとの3人暮らし。娘さんもスタジオでダンスを習っているという。


戸塚での暮らしについて尋ねると、こんな答えが返ってきた。


「もう、すっかり戸塚の人です。地元より地元感がありますね」


この街で出会った先輩や仲間たちに誘われ、商店街の活動や地域イベントにも関わるようになった。


そんな中で感じたのが、戸塚駅の東口と西口の間にある、見えない距離だった。


「せっかく同じ戸塚なんだから、一緒に何かできたらいいのにって」


それぞれに長い歴史があり、簡単にはまとまらない事情もある。


それでも前澤さんは、双方の人たちと交流しながら、少しずつつながりを作ってきた。


コロナ禍には、夏祭りを楽しみにしていた子どもたちのために地域の仲間とイベントを開催。


また、東口と西口の人たちが参加する綱引き大会など、街を一つにつなぐ取り組みにも関わっている。


「最初はみんな軽い気持ちで参加するんですけど、始まると本気になっちゃうんですよ(笑)」


大人も子どもも一緒になって笑い、夢中になる。

そんな時間が、街の距離を縮めていく。


「もっと若い人たちにも入ってきてほしいんです。そうしないと続いていかないですから」


音楽の世界で若いアーティストたちをつないできた前澤さんは、今、戸塚という街でも人と人をつなぐ役割を担っている。


次の夢は、お年寄りが主役のテーマパーク

そして今、前澤さんには新たな夢がある。


それは、高齢者が生き生きと働き、子どもから大人まで楽しめる、農園とエンターテインメントを組み合わせたテーマパークのような施設を作ることだ。


広い敷地に畑やカフェがあり、元気なおじいちゃん、おばあちゃんたちが華やかな衣装で接客したり、野菜を育てたり。


訪れた人は好きな野菜の種と育ててくれる人を選び、収穫を楽しみに待つ。


敷地内には高齢者向けの住まいや医療施設も設けたいという。


「そこで自分も働いて、人生を終えたいんですよ」


その構想を語る前澤さんは、まるで新しい音楽を作ろうとしている時のように楽しそうだ。


これまで音楽を通じて多くの人を楽しませ、子どもたちの成長を見守り、地域の人々をつないできた前澤さん。


その新たな夢にも、誰もが自分らしく輝ける場所を作りたいという思いが感じられた。

夢は、一人では終わらない

いじめられっ子だった少年が、誰かを助ける少年になった。


音楽に夢中になった青年は、親友や仲間に支えられて夢を叶えた。


そして今は、子どもたちの夢を応援し、北海道のよさこいチームと音楽を楽しみ、戸塚の街をつなぎ、さらに高齢者が輝ける未来を思い描いている。


「今までの夢は、全部叶っているんです」


そう話す前澤さん。


もちろん、そこには失敗も挫折もあった。


それでも人を信じ、人と関わり続けてきた。


若い頃、親友からかけられた「お前の夢を自分の夢だと思って応援する」という言葉。


今の前澤さんは、まさにその言葉を、次の誰かへと手渡しているように思う。


自分が夢を叶える喜びから、誰かの夢が叶う喜びへ。


そして、誰もが自分らしく輝ける場所を作るという、新しい夢へ。


前澤さんがこれからどんな笑顔を生み出していくのか。


その続きを、楽しみにしていたい。

インタビュー後記

今回お話を伺った前澤さんは、音楽業界で数々の実績を残してきた方。ところが、取材中に何度も耳にしたのは、成功を誇る言葉ではなく、周りの人たちへの感謝の言葉でした。


夢を応援してくれた親友、苦しい時に支えてくれた仲間、成長して先生として戻ってきた教え子。

そして、北海道で自分の音楽を聴いて涙を流して喜んでくれた人たち。


どの話をする時も、本当に嬉しそうな表情が印象的でした。


中でも心に残ったのは、これからの夢についてのお話です。


高齢者が主役となって働き、子どもから大人まで楽しめる施設を作りたいという前澤さん。


その構想を聞いて、私も以前から思い描いていた高齢者と若者が助け合いながら暮らすシェアハウスを作りたいという話をしました。


いつの間にかインタビュアー交代で私も熱弁していたのです笑


すると、「それ、いいですね。やりましょう!」と即答。


更に「そのアイデア頂いていいですか?」と。


思いがけない反応に驚くと同時に、なんだか本当に実現できるような気持ちになってしまいました。


振り返れば、前澤さんはずっとそうやって人と関わってきたのでしょう。


誰かの夢を面白がり、一緒に喜び、時には力を貸す。だからこそ、人が集まり、また新しいご縁が生まれていくのだと思います。


今回の出会いで、私の夢にも小さな一歩が生まれたような気がしています。


いつか本当に、おじいちゃんもおばあちゃんも、若者も子どもたちも、みんなが笑って過ごせる場所を作れたら。


そんな未来を想像するだけで、今からワクワクしています。

お問い合わせ

株式会社ユニスターズ

芸能事務所  HARMONIZE COMPANY

〒244-0003  横浜市戸塚区戸塚町16-1  

トツカーナB1  A001ー201区画

TEL:045-392-5120(dance studio UNISTA内)

HP:https://harmonize-company.jp

*お電話の際は、『区民ニュース』の記事を読みました。とお伝え下さい。

ご紹介者さま: 有限会社ZEPP FACTORY 山崎 正博 さん