居住地:川崎区在住
現住所での暮らし:2008年から
家族:妻・娘・息子
仕事:訪問介護・障害福祉サービス事業
会社:独立して現在4年目
主な活動エリア:川崎区、鶴見区周辺
夢:50歳までにスタッフを育てあげ、会社を任せ、自分は大分や千葉で釣りをしながらのんびり暮らすこと。できれば近所で飲食店もやりたい。

北澤豊さんが川崎・鶴見のまちで続ける、まっすぐな福祉のかたち
水谷豊からはじまった、北澤豊という名前
「名前の由来って聞いたことありますか?」
そう尋ねると、北澤豊さんは少し照れたように笑って、短く答えた。
「水谷豊です」
お母さんが好きだった俳優の名前。それが、北澤豊さんの名前の由来。
北澤さんは、2008年から川崎区で暮らしている。平坦で、横浜にも東京にも羽田空港にも出やすい。幼稚園や学校も近く、子育てにも向いている。かつて横浜の坂の多い地域に住んでいたこともあり、川崎区の暮らしやすさは気に入っている。
「子供達は小学校も中学校も10分くらいで行ける。自分の時は40分くらいかかっていましたからね」
便利で、暮らしやすくて、人の顔も見える。そんな場所で、北澤さんは今日も地域の誰かの生活を支えている。
いたずら少年と、支援学校との出会い
子どもの頃の北澤さんは、とにかくやんちゃだった。
「不良とかグレてるわけじゃないんですけど、無鉄砲に行動して、よく親に怒られてました」
小学校では少年野球に夢中になった。ただ、親の仕事の都合で2年おきくらいに引っ越しがあり、チームに馴染んだ頃にまた別の土地へ行く。その繰り返し。
そんな幼少期のなかで、今の仕事につながっているかもしれない記憶がある。通っていた小学校の隣に、今でいう支援学校があったのだ。
七夕やクリスマス会など、行事のたびに交流があった。障害のある子たちと一緒に過ごすことが、特別ではなく日常の一部として。
「小学生の時から障害を持っている人との関わりがあったので、それがどこか根底にあって、今の仕事につながっているのかなと思います」
当時は今から35年ほど前。今ほどインクルーシブ教育という言葉が一般的ではなかった時代。それでも北澤さんの中には、自然に「違いのある人と一緒にいる感覚」が残った。
そしてそれは長い時間をかけて、ふと人生の選択肢として浮かび上がってくることになる。
夜の仕事から福祉へ。「なんとなく」が人生を変えた

高校卒業後、北澤さんには特にやりたいことがなかったそうだ。
朝から夕方まで働き、夕方から夜中までは夜の店でボーイをしていた。スーツを着て、遊ぶように働く1年間。漁師になろうかと考えたこともある。母方の実家は大分・別府で漁師をしていたからだ。
けれど親には「これからの時代は大変だからやめた方がいい」と言われた。
そんな中で19歳の北澤さんの頭に突然浮かんだのが「福祉」。
「本当に、ふと出てきた感じです」
明確なキッカケがあったわけではない、誰かに強く勧められたわけでもない。ただ、小学生の頃の支援学校との交流が心のどこかに残っていたのかもしれない。
専門学校に進み、実習では高齢者施設にも行った。しかし、北澤さんが選んだのは障害福祉だった。卒業後は障害者施設で4年間経験を積む。
その後、結婚を考えるタイミングで現実にぶつかる。
「給料が安くて、生活ができないと思ったんです」
福祉の仕事は好きだったが、家を借り、家庭を持つには厳しかった。そこでDHLに転職する。大手企業の安心感もあり、家も買えた。
ただ、時間の流れがまったく違う。
「その日に荷物を飛行機に乗せなきゃいけない。海外に飛ばすので、とにかく時間に追われる仕事でした」
それでも10年はやると決めて、やりきった。
10年目、専門学校時代の同級生が訪問介護の事業所を立ち上げていることを知る。飲みながら「福祉に戻ろうと思っている」と話すと、「同じくらいの給料を出すから、うちに来なよ」と声をかけられた。
そこから福祉の世界へ戻り4年間働き、今度は自分のカラーでやりたいと独立した。
「自分も会社を起こしたい、自分のカラーで何かをやりたいっていうのがあって」
現在、会社は4年目。川崎区、鶴見区を中心に障害福祉と介護の現場を支えている。
人を支える仕事は、自分を知る仕事

北澤さんの事業所には、若い方から高齢者まで幅広い利用者がいる。障害福祉では、受給者証により月に使えるサービス時間が決まり入浴介助や通学支援などを行う。65歳を超えると介護保険の対象になるため、介護の指定も取っている。
一番若い利用者は小学生。一方で、94歳の利用者もいる。
依頼は多い。しかし、人手が足りない。
「利用者さんは増えていますけど、今は少しストップしています。人がいればもっと受けられるんですけど…」
福祉業界の課題は、やはり人材不足と賃金の低さだ。施設系では手取り10万円台という話も珍しくない。北澤さん自身もかつて生活のために福祉を離れた経験がある。
だからこそ、自分の会社ではスタッフの待遇を大切にしている。
「安いとやっぱり他に行っちゃう。最低限、同じくらいの金額には設定します」
実際、前職より年収が100万円、150万円上がったスタッフもいるという。
北澤さんが目指しているのは、福祉を「いい人の自己犠牲」で終わらせないことだ。ちゃんと生活できる仕事にすること。ちゃんと休めて、ちゃんと稼げて、ちゃんと笑える職場にすること。
スタッフ同士の空気も明るい。
「みんなポジティブですね。何かあっても、じゃあどうしようかって考えられる人が多い」
福祉の仕事は、相手の価値観と向き合う仕事でもある。思い通りにはいかない、イライラすることもある。自分の弱さが見えることもある。
それでも北澤さんは言う。
「この仕事って、自分が成長できる仕事だと思うんです」
DHL時代の対象物は段ボールだった。今、向き合うのは人だ。だからこそ難しい。だからこそ面白い。
“善人じゃない”と言いながら真っ先に動く人
「善人って、北澤さんにとってどんな人ですか?」
そう聞くと、北澤さんは少し考えてから答えた。
「心の底から、人のために動ける人ですよね」
それはまさに北澤さんではないか。そう伝えると、本人はすぐに否定する。
「いや、僕は善人じゃないです」
けれど、北澤さんは常にパルスオキシメーターを持ち歩いている。利用者の現場で使うためでもあるが、道で誰かが倒れていた時に対応できるようにするためでもある。
実際に、路上で痙攣して泡を吹いている人に遭遇したことがある。周囲は見て見ぬふりだった。
「見ちゃったからしょうがない。やるぞって」
横向きにして、救急車を呼んだ。
「自分の身内だったらって思ったら、誰かを助けて欲しい、誰かに助けて欲しいじゃないですか」
スタッフにも同じような出来事があった。現場に向かう途中、道で倒れている人を助け安全な状態にして救急車を呼び、名刺を置いて現場へ向かった。後日、感謝の連絡が来たという。
「教育してないですけど、うちのスタッフはみんな動けますね」
北澤さんは、自分を悪人っぽく見せたがる。でも、話を聞けば聞く程にじみ出るのは人を見捨てられない性分だ。
本人は「50歳までにスタッフを30人くらいに増やして、会社を任せられるようにしたい」と笑う。
「そうなったら、自分は大分や千葉で釣りを楽しみながら、ゆったりとした時間を過ごしたい。近所で飲食店もやってみたい。元お相撲さんのスタッフが作るちゃんこ屋を出すのも面白そうだし、なにか誰も想像しないことをやってみたい。自分が現場を離れても会社がしっかり回るような組織をつくりたいんです」
この言葉が、なんとも北澤さんらしい。
釣りがしたい、仲間と飲みたい、自分のやりたいことにも挑戦したい。だけど、そのためには人を育て、会社を安定させ、地域に必要なサービスを届ける。
一見肩の力が抜けているようで、その根底にはしっかりとした責任感と未来へのビジョンがある。
そんな北澤さんの今後がとても楽しみだ。

《編集後記》
北澤さんは、インタビュー中ずっと「自分は善人じゃない」と。
でも私から見ると、これはもう“善人の照れ隠し選手権”があったら川崎区代表で出場できるレベル。
だって、道で人が倒れていたら助ける、スタッフの給料はできるだけ上げたい、利用者の依頼は本当は断りたくない、困っている元スタッフにも「何かあったら連絡してきな」と言う。
人間、きれいごとだけでは続かない。とくに福祉の現場は甘くない。報酬単価、求人難、スタッフの生活、利用者との関係、どれも現実は重い。
実は私もヘルパーの資格を持ち、かつて少しの期間ではあるがグループホームに勤務していた経験があるので、現場の大変さは少しは理解しているつもりだ。
北澤さんはその重さを全部わかったうえで、笑いに変える力がある。
「LUANA」という社名はハワイの言葉で「楽しむ」という意味がある。自分だけが楽しむのではなくお互いに楽しむという事。
北澤さんの周りに明るいスタッフが集まる理由がわかる気がした。
たぶん北澤さんは、誰かを無理に照らすタイプではない。自分がちょっとふざけながら歩いていたら、周りが「あれ、なんか明るいぞ」と気づくタイプだ。
善人とは、立派なことを言う人ではなく、必要な時に体が動く人。
そう考えると、北澤豊さんはやっぱり善人だ。
本人がどれだけ否定しても…
お問い合わせ
株式会社LUANA
神奈川県川崎市川崎区浅田3-14-7 クオレカリーノ101
TEL:044-742-9383
HP:https://www.luana2023.com/
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宗石由美子
2026/06/26(金)