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将来的にお寺に勤めてみたい女性です。
(1年前の記事です) 掲載日:2023/06/27
私は現在横浜に住んでいます。昔から日本史が好き、特に空海様のことが好きで先日初めて高野山のお寺に泊まってきました。
私にとって夢のような時間で空海様を肌で感じる事が出来、日頃勉強していたこともあり勇気を持って宿坊させて頂いた寺院でお勤めされていた男性僧侶の中に、一人私と同年代の女性の方がいらっしゃったのでついつい「私も宿坊で働きたいんです。できれば得度もしたいんです。」という願望を一方的に話してしまいました。
その女性は真摯に優しく私の話を聞いて下さり、お山での生活や女性の立場、得度のことなど細かく教えてくれました。
その女性も在家出身で、最初はお台所の手伝いをしていたのですが、書道をしてるのでご住職の指示で寺務に替わり、ご住職から得度のお許しをいただき、仏様のお仕事もさせていただけるようになったとのことでした。
でも、お勤めなどに出ることは許されず、お盆のお檀家さん参りにも出られないらしく、「男性僧侶が滞りなく拝めるように本堂の準備や書き物をするのも、大切な勤めなんですよ」と、何のご不満もなさそうににこやかにお話しされていました。
「今の時代は男も女もない時代なのにちょっとおかしいのではないだろうか?」と思いました。やっぱり私のような考えの者は、お寺様で働くこと、ましてや得度は厳しいのでしょうか?
私は気に入らないことがあると幼少期からすぐ感情的になってしまうところがあり、今回のお話で男女差別を感じた次第です。やはり私の様な感情をコントロールできない女性が入る様な世界では無いのでしょうか?私には是が非でも尼僧になりたい夢があります。出来れば何処かで修行したいと思っています。もし高野山がダメだったらどうすればいいのかも是非教えて頂きたいです。
※ 相談者のプライバシーに配慮し、実際の質問内容を一部改変して掲載している場合がございます。ご容赦ください。
ご質問ありがとうございます。
いくつか質問があるようですので、読解できる範囲で以下に記載させていただきます。
①「今の時代は男も女もない時代なのにちょっとおかしいのではないだろうか?」と思いました。やっぱり私のような考えの者は、お寺様で働くこと、ましてや得度は厳しいのでしょうか?
②私の様な感情をコントロールできない女性が入る様な世界では無いのでしょうか?
③もし高野山がダメだったらどうすればいいのかも是非教えて頂きたいです。
①に関してですが、少しこの文章からだけだと分かりづらいのですが、要するに「“男女差別があるのはおかしい”という考えをもつ人(自分)がお寺で働いたり得度するのは厳しいでしょうか」という質問と理解します。
結論から言えば、お寺で働いたり、得度したりするのにふさわしいとかふさわしくないとか全くありません。やりたいのであれば、やればいいし、やりたくないのであれば、やめればいい。それだけです。
修行の世界においてふさわしいとかふさわしくないとか全く関係のない話です。他人がふさわしいと言ったからやるとか、他人が向いていないと言われたからやめるという程度の想いなのであればそれはそれで尊重しますが。いずれにしても最終的には自分で決めて自分で決着するのが仏門の世界です。
そもそもふさわしいとかふさわしくないとかは人が決めるものではないと思います。それこそ、神仏が決める事でしょう。
私自身も実家はお寺ではなく一般の家庭で育ちました。いわゆる在家出家というもので、親戚にお寺があったとか、両親が信心深かったとか全くない中で僧侶の道を歩みました。かくいう私も在家の私が出家などふさわしいのかと何度も悩んだこともありました。けれどもいまとなっては、どうでもよいことです。
自分が一歩一歩、歩んできたこの人生こそが最も貴重なものであったと判断するだけです。
いろいろな僧侶や在俗の方と接してきた中で、僧侶にふさわしい、ふさわしくないということは、最終的には分からないということです。一見すると「この人は僧侶になるのにふさわしいなぁ」と思った人も修行が辛くてやめてしまったなんてこともありますし、「これは大丈夫かなぁ」と感じた人が意外と僧侶の世界に残りいまも住職として頑張っているなどよく聞くことです。
ご自身がやりたければお寺で働いたり、得度されたりするのは良いと思います。
(ご質問の意図とは外れますので「差別」はもともと仏教の言葉で、「さべつ」と呼ぶのではなく「しゃべつ」と読みました。いま社会的に言われている「差別」という概念と全く異なるものですので、是非、学んでみてください。)
②私の様な感情をコントロールできない女性が入る様な世界では無いのでしょうか?
女性男性に限らず「感情をコントロールできない」ことは大きな課題です。仏教や仏道修行の大きな目的のひとつに「感情をコントロールする」があると思います。
初期仏典の中でも最古に位置する経典に『スッタニパータ(経集)』がありますが、その中の「聖者」という短い経典の中に、私たち僧侶が目指すべき理想像が描かれています。
212:智慧の力あり、戒めと誓いをよく守り、心がよく統一し、瞑想(禅定)を楽しみ、落ち着いて気を付けていて、執着から脱して、荒れたところなく、煩悩の汚れのない人、――諸々の賢者は彼を「聖者」であると知る。
『ブッダのことば』中村元訳
「心が良く統一し、瞑想(禅定)を楽しみ、落ち着いて気を付けていて」とはまさしく仏道修行の大きな眼目であり、心穏やかに生きることが修行であることを釈尊は説いています。
有り体に言うのであれば、「感情がコントロールできない」人が自らの仏道修行において「感情をコントロールできる」ようになるのが仏教の理想と言うことになるでしょう。
最初から感情をコントロールできる人は仏道修行によって更にコントロールできるようになることも素晴らしいですが、もともと感情をコントロールできない人が仏道修行によってコントロールできるようになることも素晴らしいことだと私は思います。
③もし高野山がダメだったらどうすればいいのかも是非教えて頂きたいです。
「高野山がダメであれば」という前提に立ってお話しさせていただきますが、真言宗含め臨済宗も曹洞宗も浄土宗も僧侶になる道はいろいろあります。
もし空海様や真言宗と言う宗派にこだわりがあるのであれば、高野山がダメでも、醍醐寺(真言宗醍醐派)もありますし、大覚寺(真言宗大覚寺派)もありますし、智積院(真言宗智山派)もありますし、長谷寺(真言宗豊山派)もあります。
空海様や真言宗以外の道であれば、佛教大学(浄土宗)で所定の履修をすれば僧侶になれますし、臨済宗でもいま僧侶を募集しておりますのでそちらでも問題ないでしょう。
いずれにしても僧侶になる道はいろいろとありますので、各本山に問合せてみるのもよいことでしょう。
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