今回ゲストにお招きしたのは評論家・著述家の真鍋厚さん。

近年の日本はさまざまなコミュニティの機能が希薄になり崩壊しつつあると言います。

何故、人々の生活の場からコミュニティが失われてきたのか。

いろいろな角度から腑に落ちるお話を聞かせていただきました。


Photo:長谷部ナオキチ

社会のあらゆるコミュニティが希薄化しつつある

高木優一:社会の仕組みを支えてきた様々なコミュニティが形骸化されつつあるのを実感させられます。真鍋さんはこの問題に着目し、閉塞されつつある状況を何とかしようという働きかけを、いろいろなメディアや書籍を通し発信していらっしゃいます。


真鍋厚:「不寛容という不安」という本に着手したときは、ヘイトスピーチや、人種差別や、女性蔑視などの問題がクローズアップされていました。私個人の動機としては、それらの直接的な原因というよりも、その前の段階で歴史的な背景とか社会的な事象がどう影響しているのか。人の心理的なメカニズムとコミュニケーションの生態系の関係に焦点を当てる方向で書こうと思い立ちました。このような社会現象の拡大が、特定の心理状態に基づくものであり、それはいわば「関係の貧困」に根差すものだと考えたのです。そこに当然、家族の絆が以前と比べて弱くなっているとかのコミュニティの問題が浮き上がってきます。



高木優一:そうか。家族もコミュニティの一種というか基本ですよね。


真鍋厚:家族って情緒的な絆で結ばれた信頼関係で成り立っているコミュニティだと思うんですよね。以前はそこに金銭的な取引などが入る余地は少なかった。でも、今は生臭いお金の話とかも絡んできます。そもそも生活の安定といった目先の利益で結婚したりしているから、失業とか病気とかで金回りが悪くなると即離婚となる。自分が安心してそこにいられるようなコミュニティではなくなってきています。



高木優一:私の専門分野でも、家族間の相続トラブルが日常茶飯事で起こっています。家族のコミュニティ崩壊の最たるものですね。家族同士だけでなく、近所づきあいも希薄化していますよね。隣の家との越境トラブルなども頻出しています。


真鍋厚:昔みたいに近所同士のコミュニティが機能していれば、越境トラブルなんて大きな問題にはならなかったと思います。日常からコミュニケーションが保たれていれば、隣の家の木が越境してきても、まあ、いいかと寛容になれますし、自分の家の植物が塀を越えていたら、「すみません、切りますから」「ああ、こちらで切っておきますからいいですよ」といったやりとりで済みますし、敵対行動にまで発展しませんでした。今は相手の家と日ごろから没交渉になっているから争いごとになってしまうんですよね。



企業コミュニティの消滅

高木優一:コミュニティの崩壊に関しては、メディアでも多く採りあげられていますし、いろいろな識者が言ったり書いたりしていますね。


真鍋厚:そうですね。やはり現代の大きな問題だと思います。日本の場合、戦後に集団就職に象徴されるように、大都市への人口の大移動がありました。農村にいた人が都会に出てきていろいろなコミュニティを作り上げたわけです。主としては企業がそれを推進しました。「企業城下町」といった形で会社内コミュニティが潤っていたのですが、今の企業はそのような受け皿を有しなくなってきています。寮や社宅とかも減ってきていますし、企業内コミュニケーションがどんどん薄くなっていく方向に進んでいます。情報化がそれに拍車をかけました。チームによる共同作業が減り、パソコンによる個人プレーが主体となってきましたので、個人の業績のみで評価が決まってきています。企業が地方から出てきた人のコミュニティの土壌になっていたのが、今やほとんど機能しなくなってきているのです。会社の中でも、昔のコミュニティが有効だった頃のことを知っている古い社員が、若い人に「飲みに行こう」などと働きかけてもついてきませんしね。



高木優一:なるほど。集団就職が日本のコミュニティ形成の根っこにあったんですね。


真鍋厚:戦前には農村共同体というものがしっかり存在していました。戦後になって都市部への流入が非常に活発になってくると、地方は公共事業のお金に依存する形で共同性を保全し、都市に出てきた人たちは企業内にコミュニティを形成し、安心を得るという構図が作り上げられました。ただ、高度経済成長期にはそれで何の問題もなかったのですが、だんだんと経済が回らなくなって企業も余裕がなくなり、社員やその家族の面倒まで見られなくなる。共同体的なつながりがどんどん薄くなりやがてコミュニティは崩壊してしまうという図式になっていると考えられます。一方で地域コミュニティは企業のように熱心に創り上げられませんでした。戦後からこれまで、一部の地域を除き積極的な地域コミュニティを形成するという動きがまったく見られません。欧米のようなキリスト教がベースとなっている宗教コミュニティもないですしね。新興宗教のコミュニティだけは例外的に機能していますが……。ですから、企業勤めを終え定年後に地元に帰り生活をし始めても何も拠りどころがない。それが今、社会問題となっているわけです。


井戸端会議の場が失われている

高木優一:地域のつながりが希薄であるというのはわが身に振り返っても実感できますね。私も隣の家の人のことまったく知りませんし、ほとんど話したこともありません。


真鍋厚:欧米でしたら、教会もあり皆が集うパブもありといった感じで、顔を合わせて近所づきあいが自然とできています。日本はコミュニティが発生するような場が現実的に失われています。昔は縁側があったり、何となく人が集まって会話するような開放的な家があったのですが、それもなくなっています。コンビニだって人が集う場所ではないですしね。ちょっとした噂話とか世間話をする場と機会がなくなっているんです。



高木優一:確かにそうですね。近所の人たちが寄り集まって井戸端会議をするなんて想像もできません。


真鍋厚:今、それを問題だと気づいた人たちが少しずつ自分の家を地域の人たちが集まる場として提供しようとか、コミュニティカフェなどの商売をやりはじめる人もいます。まずは「おかしいよね」と思わないとそういう活動はできません。コミュニティがまったくない状態は苦しいと思いますよ。家庭でも職場でも気軽に話をできる相手がいないわけですから。


高木優一:そうですよね。月に一度床屋に行って髪を切ってもらいながらそこの主人と世間話をするなんて、少し前まではあたり前にありましたけれど、今はそれすらなくなっていますよね。



真鍋厚:もちろん昔は良かったというふうに、脳天気に主張したいわけではないのですが……。そうではなくて、今何に困っていたり、不自由だったりしているのはなぜかを、コミュニケーションの生態系という視点からきちんと捉えることが重要なんです。そういう意味で過去に存在していた場や機会を再検証して、優れたところは現代に相応しい形で作り直すのがベターだろうと思うんです。今、ビジネスで成功しようと思ったら、ビジネスの場にコミュニケーションの機能を付加させることでしょうね。そこでいろいろなことを話しあってストレスを発散させたり、セラピー的なものが期待できるような場を提供する。飲食店でも床屋でもいいのですが、コミュニティを求めているお客さんはヘビーユーザーになると思います。求めている人は大勢いると思いますよ。学問の世界などではサード・プレイスという概念があります。職場でも家庭でもない第3の場所。それがあることで人間的な感情が安定するということは、確かにあるでしょうね。


高木優一:職場でも家庭でも追い詰められると逃げる場所がないですもんね。



真鍋厚:昔だったら集まって愚痴を聞いてくれる場所があって、「辛いんだよ」「それでもあんた頑張っているじゃない」と言ってくれる人がいることで安心できました。今はそれがないからすぐ心療内科に行って、「ああ、うつ病ですね」と診断されて、お薬を処方されてしまう。豊かなコミュニティってうつになるのを和らげる緩衝地帯のようなものでもあるはずなんです。これは多くの人が日々実感していることではないでしょうか。


高木優一:今起こっているコミュニティの崩壊や希薄といった事象は、昔の集団就職まで遡るという本日の話には目から鱗が落ちた感じがします。本日はどうもありがとうございました。