【脱刀不服の建言!?】

 明治2年(1869)1月、政府が管轄する地域の百姓や町人の帯刀が禁止されました。その一方で、帯刀していれば一目で役人だと分かることから、政府の官員は帯刀が義務化されており、官員の象徴でした。
 しかし、業務によっては帯刀していると動きづらく不便に感じることもあったようで、帯刀をやめたいと思う官員たちも現れました。
 明治4年(1871)頃から脱刀の申請が増えてきます。早い例だと同年6月3日に近江国朝日山藩(現滋賀県長浜市)が、藩内士族の脱刀を政府に申請して許可されています。政府の省庁でも、工部省が申請したのを皮切りに、各省もこれに続きました。
 東京府では、明治4年7月頃から続々と脱刀の申請が出されます。ところが、東京府の官員であった猪狩富典という人物がこの風潮に異議を唱えました。
 猪狩は日向国延岡藩(現宮崎県延岡市)出身で、明治3年に東京府物産局に採用されました。明治4年7月、猪狩は、のちに「脱刀不服之建言」と名付けられる上申書を東京府に提出します。この上申書から猪狩の主張をみていきましょう。
 猪狩の主張はおおよそ3つあります。①内政・外政ともに不安定な時期に脱刀すると、人々の気が緩んでしまうのでないか。②東京にいる「放蕩無頼(ほうとうぶらい)」の人々や不平を抱いている人々によって不測の事態が生じた際、脱刀した官員たちでどうやって鎮圧するのか。③一般庶民と見た目の区別がつかず、「礼儀」に欠ける状態になってしまい、脱刀の次は「袴等モ無益ト心得」て、袴を着用せずに出勤するようになってしまう。つまり、官員としての威厳が損なわれると主張しています。
 この上申書が東京府内でどのように扱われたのかは分かりません。ただ、世間では脱刀がおし進められて行きます。明治4年8月9日には、それまで義務であった官員の帯刀が礼服時を除いて自由化され、帯刀が役人の象徴するものではなくなりました。服装も洋装が広まり、袴の着用も減っていきます。明治9年3月には、いわゆる帯刀禁止令が出され、一部の例外を除いて刀を帯びる機会はなくなりました。
 明治9年3月、司法省に職を得ていた猪狩の訃報が『司法省日誌』に掲載されています。帯刀がなくなりつつあった世の中は、猪狩の目にどのように映っていたのでしょうか。

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○資料情報
「上書 脱刀不服の建言 東京府権少属猪狩富典 7月」『御用留 〈書記課〉』(請求番号:605.C3.08)

「転免履歴 猪狩富典 通称富三郎 依願免出仕 補東京府九等出仕 明治6年8月13日」『第1種 秘書*転免履歴・冊ノ2  明治5年~明治7年』(請求番号:601.A1.06)
日本史籍協会編『明治初期各省日誌集成 司法省日誌19(明治9年3月)』(東京大学出版会、1985年)

◯参考文献
尾脇秀和『刀の明治維新』吉川弘文館、2018年

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5 いいね! ('25/06/04 01:01 時点)