野村 勝政
1971年1月生まれ
1997年 宮崎医科大学(現 宮崎大学)卒業
1997-1999年 湘南鎌倉総合病院
1999-2004年 大隅鹿屋病院 循環器内科
2004-2011年 宮崎市郡医師会病院 心臓病センター 循環器内科
2011年 9月 野村循環器内科クリニック 院長
<資格>
日本内科学会 認定医
日本循環器病学会 専門医
日本抗加齢医学会 専門医
日本温泉気候物理医学会 温泉療法医
日本女性心身医学会認定 更年期指導士
日本医師会認定 健康スポーツ医
アスリートフードマイスター3級
日本アクアソムリエ協会認定 アクアソムリエマイスター
全米NLP協会 日本NLP協会 NLPプラクティショナー
医療の先に「人づくり」と「まちづくり」を描く、野村勝政先生
「物事を成し遂げるのは、情熱×かける時間だと思うんです」
インタビューの終盤、野村勝政先生が何気なく口にしたこの言葉が、妙に心に残った。
情熱が10あるなら、10年かければいい。
情熱が100あるなら、1年で辿り着くかもしれない。
たとえ今は小さな「1」しかなくても、それを捨てずに100年持ち続ければ、いつかはそこに辿り着く。
そんな話をする野村先生の声には、医師として30年を歩んできた人の落ち着きと、その奥底でいまだ燃え続けている少年のような熱が同居していた。
地域医療。
スポーツ医療。
予防医学。
教育。
そして、故郷のまちづくり。
一見すると別々に見えるものが、野村先生の中では一本の線でつながっている。
その原点を辿っていくと、そこには一人の父の死と、何も言わずに自分を信じ続けてくれた母の姿があった。

「お前はアクシデントで生まれた子だから・・・」
野村先生は、広島県の山間部、現在の神石高原町周辺で生まれ育った。
当時、人口は4,600人ほど。
信号機すらなかったという。
「小学校5年生の時に初めて信号機がついたんですけど、ちゃんと信号を守ったのは最初の1回だけでしたね(笑)。だって、車が来ないんですよ」
そんな話を笑って語る。
三男坊。
長男とは18歳、次男とは16歳離れていた。
兄たちからは冗談交じりに、
「お前はアクシデントで生まれた子だから」
と言われていたという。
物心がついた頃には兄たちは家を出ており、家庭の中にいるのはほとんど大人ばかり。
同世代の兄弟と喧嘩することもなければ、子ども同士で甘え合うような環境でもなかった。
だから野村少年は、少し早く“大人”になった。
「友達が悩んでいることを聞いても、『それ、自分で決めることでしょ?』って思っちゃうような子どもでした」
一方で、心の奥には別の感情もあった。
「今振り返れば、承認欲求の塊だったと思います。自分を見てほしい。僕はここにいるんだって」
中学、高校では生徒会長を務めた。
誰もやりたがらないなら、自分が前に出る。
何かを始めるなら、自分がきっかけを作る。
その気質は、すでに少年時代から芽生えていた。
大嫌いだった父から、人生最大のメッセージをもらった
父は小学校教員だった。
決して裕福ではない環境から教員となり、独自の教育方法に取り組み、その実績を評価されて海外研修に行くほどバイタリティのある人物だったという。
その一方で、縫製工場を立ち上げ、最大40人ほどの従業員を抱える経営者の顔も持っていた。
負けず嫌いで、エネルギッシュ。
だが、その分、とても強烈な人でもあった。
「父親のことは、本当に大嫌いでした」
野村先生は飾らずに言う。
酒を飲み、周囲とぶつかることも多かった。
体調を崩してからは、その難しさがさらに増していった。
そんな父を、ただ黙って支え続けたのが母だった。
昼は仕事。
夜は入院する夫に付き添う。
朝になればまた家に戻り、仕事へ向かう。
それでも野村先生は、母から一度たりとも父への愚痴を聞いたことがないという。
「すごい人だったと思います。人を信じる力があったんでしょうね」
小学校4年生頃から、夜、一人で家にいることもあった。
帰宅すると500円玉が置いてある。
食事は自分で作る。
自分のことは自分でやる。
母が口にした言葉がある。
「お前はいい思いをしていないから、どこでも生きていける」
その言葉の通り、野村少年には“自分で生きる力”が少しずつ染み込んでいった。
そして高校3年生。
父が亡くなる。
その日、野村先生の人生は大きく動き始めた。
父を失った直後、母は息子にこう言った。
「勝政、申し訳ない。お父ちゃんが亡くなったのは、お母ちゃんの責任だ」
あれほど苦労させられた夫について、母は誰かを責めるどころか、自分を責めた。
そして続けた。
「でも、お父ちゃんがいなくなったからといって、お前は不幸でも何でもない。もっと苦労している人はたくさんいる。強く生きなさい」
その姿を見た時、野村先生の中に初めて明確な想いが生まれた。
母を幸せにしたい。
そして、もう一つ。
「もし、この田舎にちゃんとした医療があったら、母はここまで苦労しなかったんじゃないか」
ならば――。
医者になればいい。
医療を、この町に持ってくればいい。
父の死を、“悲しい出来事”だけで終わらせず、自分へのメッセージとして受け取った瞬間だった。

「医学部に行きたい」「お前、何言ってるか分かってるか?
担任に医学部進学を伝えると、返ってきたのは厳しい言葉だった。
「野村、お前、何言ってるか分かってるか?」
それまで猛烈に勉強してきたわけではない。
医学部など、現実的には遥か彼方。
先生からは、
「高校3年間をやり直すくらいのつもりでやれ」
と言われた。
ところが母は違った。
「うちの息子が初めて勉強したいと言ったんです。主人が亡くなったからといって、そのチャンスを与えないわけにはいきません」
そして息子に言った。
「やりたいようにやれ」
それだけだった。
18歳。
広島の人口4,600人ほどの町から、東京へ。
野村先生が選んだのは、自由な浪人生活ではない。
朝6時起床。
外出は1時間以内。
消灯時間まで決められた、いわば“監獄予備校”のような場所だった。
なぜ、わざわざそこを選んだのか。
「僕は弱い人間だからです。楽な環境に行ったら流される。だったら最初から厳しいところに身を置こうと思った」
そこで突きつけられたのは、自分の現在地だった。
周囲には医学部を目指す優秀な浪人生がずらり。
「自分は本当に井の中の蛙だったんだなって、衝撃でした」
気持ちで負けたら終わる。
だから決めた。
毎朝、誰よりも早く寮を出る。
教室の一番前に座る。
ただ、それだけを徹底した。
そして2年後。
“不可能に近い”と言われた医学部に合格した。
後年、高校時代の担任に再会した際、先生は笑いながらこう明かしたという。
「お前が医学部に行きたいと言って職員室を出たあと、先生たちで『あいつは一生受からん』って話してたんだぞ」
野村先生は笑う。
「先生には3年かかると言われましたけど、1年早かったですね(笑)」
しかし、本人はそれを自分の実力とは言わない。
「奇跡に近かったです。何か役目があるから、この道に来させてもらったんじゃないかって、今でも思います」

あえて、厳しい方へ行く
医師となった野村先生は、当時、多くの医師が大学病院に残る中、民間の湘南鎌倉病院を選んだ。
理由は明確だった。
地域医療をやるなら、一つの診療科だけでは足りない。
内科も、外科も、小児も、救急も。
目の前にいる患者を診られる医師になりたかった。
当時の湘南鎌倉総合病院は、24時間365日救急を受け入れ、猛烈な現場だった。
朝7時から手術。
3日に1回の当直。
家に帰れないこともある。
「今だったら絶対にあり得ない環境です。もう二度と戻りたくない(笑)」
それでも、こう続ける。
「でも、あれ以上きつい時期は、その後ないんです」
人生の節目で、野村先生はいつも厳しい方を選んできた。
浪人時代も。
研修医時代も。
なぜか。
「環境が人を変えると思っているんです。僕は弱い人間だからこそ、自分を厳しいところに置くんです」
強いから厳しい場所へ行くのではない。
弱い自分を知っているから、逃げられない場所を選ぶ。
そこに野村先生の強さがある。

「悪いこと」は、本当に悪いことなのか
野村先生の人生には、家族の死が大きな分岐点として何度も現れる。
父の死。
義父の突然の死。
そして、55歳で亡くなった兄。
普通なら、ただ悲しい出来事として記憶されてもおかしくない。
しかし野村先生は、そこに必ず意味を探す。
「僕にとっては、人生の分岐点って家族の死なんですよ。だから、亡くなったという出来事の中に“自分へのメッセージは何なんだろう”と考えるんです」
父が高校3年生で亡くなったから、医師を目指した。
義父の死をきっかけに、妻の母と暮らすため宮崎へ戻った。
兄が亡くなったことで、
「今度は自分が母を支えよう」
という覚悟が生まれた。
「いいことも悪いことも、僕の中では同じなんです」
その言葉には、医師として多くの人生と向き合ってきた人だからこその重みがある。
「悪い出来事を、ただ悪いことで終わらせてほしくない。それは、自分に何かを伝えるために起きたことかもしれないから」
病気も同じだという。
病気になって初めて、人生を見直す人がいる。
家族との時間を大切にするようになる人もいる。
本当に大切な人に気づく人もいる。
「人って、うまくいっている時には本当の自分には、なかなか出会えないと思うんです。苦しい時、辛い時、悲しい時ほど、自分の正直な気持ちに向き合える」
これは、病を美化する話ではない。
起きてしまった出来事に、どんな意味を与えて生きるのか。
その選択だけは、自分に残されているという話なのだ。
「僕は、本当はナンバー2なんです」
現在、野村先生は組織のトップとして仕事をしている。
学生時代も生徒会長。
これまで多くの場所で、人の前に立ってきた。
しかし、本人は意外なことを言う。
「僕、本当はナンバー2だと思うんですよ」
優れたトップの隣に立ち、
「外は任せました。中は僕がやっておきます」
と言える立場。
情熱を持つ誰かが全力で走れるように、足元を整える。
「その人のために自分が何ができるかって考えている時が、一番自分らしいんです」
プロゴルファーの日高将史選手らを医療面から支える活動も、その延長線上にある。
血液検査をする。
栄養状態を確認する。
必要なものを補う。
コンディションを整える。
「彼が結果を出すために、自分にできることは何だろうって考えたら、僕には医療があった」
自分が主役になる必要はない。
主役が輝くために、自分の持っている力を全部使う。
その情熱が、野村先生からは溢れている。
医療の先に見えてきた「教育」
話を聞いていると、野村先生の視線はすでに病院の外へ向いていた。
スポーツ選手を診ている中で、野村先生が着目した一つが“栄養不足”だった。
病気と診断されるほどではない。
けれど、頭痛、だるさ、息苦しさなど、なんとなく調子が悪い。
特に若い女性や、中高生のアスリートに少なくない。
そこで血液検査を行い、栄養指導をし、コンディションを整える。
すると、選手によっては劇的に変わる。
中高生のスポーツ選手にとって、結果は人生を左右する。
記録が出れば推薦で進学できるかもしれない。
逆に、コンディション不良だけでその可能性を失うこともある。
「だったら、病気になってから病院に来るんじゃなくて、“結果を出すために病院に来る”っていう医療があってもいいんじゃないか」
そこで生まれた発想が、スポーツ栄養外来だった。
しかし、その先を聞いて驚いた。
野村先生が本当に目指しているのは、“健康な選手をつくること”だけではない。
中高生の頃に、
「食事って大事なんだ」
「身体を整えるって大事なんだ」
と知る。
その経験が30歳、40歳、50歳になった時の健康につながっていく。
「これって究極の予防医学じゃないかと思うんです」
医療をやっているのに、目線は教育にある。
そして、野村先生は言った。
「僕、最終的には教育なんだと思います」
父は小学校教師だった。
大嫌いだった父。
「影響はない」と言い切っていた父。
ところが1時間以上話して最後に辿り着いた場所は、その父と同じ“教育”だった。
人生とは、不思議なものである。


故郷に「スポーツ進学校」を作りたい
野村先生には、ひとつの夢がある。
故郷の高校を、スポーツに力を入れた学校へ変えていくことだ。
過疎が進む町。
子どもたちが減っていく地域。
しかし田舎には、都会にないものがたくさんある。
広い土地。
グラウンド。
自然。
食材。
そして、人を育てる余白。
オンライン教育が当たり前になった今、勉強は必ずしも都会でなければ受けられないわけではない。
ならば、
スポーツに打ち込める環境をつくる。
地域の食材で身体をつくる。
医療がコンディションを支える。
教育はオンラインも活用する。
さらに、都会の学校に馴染めなかった子どもたちが、自然豊かな場所で新しい自分を見つける。
そんな場所をつくれないか。
「田舎って、実はチャンスがあると思うんですよ」
すでに地元の町長にも、その構想を伝えているという。
「僕はあの田舎から出させてもらって、医師という仕事をさせてもらった。ただ宮崎で開業医をして終わることは、僕の中では絶対にないんです」
医師になる。
地域医療をする。
スポーツ選手を支える。
子どもを育てる。
故郷をつくり直す。
そのすべては、一本の線でつながっていた。
“情熱×時間”
インタビューの最後、野村先生がこんな話をしてくれた。
「物事を成し遂げるのは、“情熱×時間”だと思うんです」
今すぐ猛烈な情熱がなくてもいい。
小さな想いでもいい。
捨てなければいい。
コツコツ、コツコツ。
ずっと持ち続ける。
「少ししか思っていないことでも、捨てずにずっとやっていけば、いつか辿り着くと思うんです」
そして少し間を置き、こう続けた。
「今日こうやって話していて良かったです。僕自身、ちょっと情熱を失いかけていたかもしれない。忘れかけていた自分の根底にあるものを、久しぶりに思い出しました」
その言葉を聞きながら思った。
善人承継とは、誰かの立派な人生を紹介するだけの企画ではないのかもしれない。
その人自身も忘れかけていた“原点”を、言葉にして残していく。
そして、その想いを読んだ誰かの中に、また小さな火が灯る。
野村先生は最後にこう言った。
「結局、誰と出会うかなんでしょうね。限られた人生の中では、何をするか以上に、誰と出会うかが大事なんじゃないかと思います」
父の死と出会い。
母の強さと出会い。
医療と出会い。
患者と出会い。
アスリートと出会い。
故郷を離れたからこそ、故郷の価値ともう一度出会った。
そのすべてを燃料にして、野村勝政という人はまた次の場所へ向かおうとしている。
医師として人を治すだけではない。
人を育てる。
人を支える。
そして、まちをつくる。
「自分が主役じゃなくていい」
そう言いながら、誰よりも熱く、誰かの背中を押す。
その情熱はきっと、これから何年かかろうとも、故郷の景色を変えていく。
情熱×時間。
その答えを証明する旅は、まだ途中だ。
インタビュー後記
医師として30年。
地域医療に向き合い、スポーツ選手を支え、今度は教育や故郷のまちづくりまで見据えている。
これだけを並べると、とても華やかな経歴に見えるかもしれません。
けれど、野村先生の根底にあるものは、もっと泥臭くて、もっと人間臭いものでした。
「自分は弱い人間だから、厳しい環境を選ぶ」
「悪い出来事にも、必ず意味がある」
「自分が主役じゃなくていい。誰かが活躍するためのナンバー2でいい」
そして、
「物事を成し遂げるのは、情熱×時間」
僕自身、この言葉には強く胸を打たれました。
人は、年齢を重ねたり、日々の仕事に追われたりする中で、昔持っていた情熱を少しずつ忘れてしまうことがあります。
本当はやりたかったこと。
誰かのためにやろうと思っていたこと。
いつか実現したいと思っていたこと。
それが、現実の忙しさの中で少しずつ薄れていく。
でも今回、野村先生がインタビューの途中で、
「今日こうやって話せて良かった。ちょっと情熱を失いかけていました」
とおっしゃった時、僕はこの「善人承継」という企画を続けている意味を、改めて感じました。
インタビューは、過去を振り返るためだけのものではありません。
その人自身が忘れていた原点を掘り起こし、もう一度未来へ向かうための火を灯すものでもある。
そして、その火が記事を通じて別の誰かに伝わっていく。
まさに、想いの承継です。
野村先生は、ご自身を「ナンバー2」と表現されました。
でも僕には、誰かを支えるためにこれほど本気になれる人は、十分に主役だと思えました。
人のために熱くなれる。
誰かの成功を、自分のことのように願える。
故郷の未来を、自分事として考え続けられる。
それこそが、野村先生の持つ一番大きな力なのだと思います。
いつの日か、広島の山あいに、子どもたちが全国から集まり、スポーツに打ち込み、地域の食材を食べ、自然の中で成長していく。
そんな学校が本当に生まれたら。
きっと僕は、この日のインタビューを思い出します。
「あの時、先生が話していた夢が、本当に形になりましたね」
そう言える日が来ることを、今から楽しみにしています。
情熱は、持ち続けた人間が勝つ。
野村先生のこれからの歩みを、心から応援しています。
お問い合わせ
野村循環器内科クリニック
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*お電話相談の際、『区民ニュース』の記事を読みました。とお伝え下さい。
吉留暖
2026/08/25(火)